第2回 赤い百合の花 -後編-
体験者:柴崎初美さん 40歳
千葉県流山市 パート勤務
やがて瓦屋根の大きな家の前まで着くと、老人が玄関の引き戸を開けました。土間と上がりかまちの先に一直線の廊下が続き、突き当たりは襖を開け放した広い和室。そこに電話があるから勝手に掛けろと言い残して、当の老人は再び外へ出てしまいました。
「ごめんください。お邪魔します……」
私たちは念のため、奥へ向かって声を掛けながら、その家へ上がりました。
「やけに静かだな。1人暮らしかな」
「そうかも。でも親切な人で良かったね」
ギシギシと軋む木の廊下を渡り、突き当たりの座敷の境を跨ぎました。先に奥まで進んだ夫が「ウッ」と息を飲み、続いて私もその場に立ちすくんでしまいました。あまりに異様な光景が目の前に広がったからです。
「な、何、これ……」
思わず夫の腕にしがみつきました。
そこは、十畳以上はある広い和室。しかし生活感は全くありませんでした。老人が言っていた電話はおろか、普通なら置かれているはずの座卓、テレビ、茶箪笥などもまるで見当たらず、ただのガランとした空間があるだけでした。そしてその奥にただひとつだけ置かれていたのは、扉が開いたままの大きな仏壇でした。いましも火を点けたばかりのロウソクが立てられ、線香の煙が薄く立ち上がっていました。
「おいっ、出るぞ!」
夫が血相を変え、私の手を引いて部屋の外へ出ようとしました。その時に振り返るような形で、座敷の外の庭側の景色が見えたのです。入り口同様に開け放たれた障子戸の向こうには、山の斜面が広がっていました。
本当に恐ろしい物を見た時には、悲鳴も出せないのだということを、私はこの時に初めて知りました。全身に悪寒が駆け抜け、絶叫の息を喉に詰まらせながら、その場で固まってしまったのです。
笹が生い茂る山の斜面には古ぼけた墓石が建ち並び、その横にいくつもの人影が立っていました。若い人、老人、子供、男、女と年齢も性別もバラバラでしたが皆、一様に無表情で血の気を失ったような真っ白い顔色をしていました。それが私たちの存在に気づいたかのように、笹を掻き分けて一斉に降りてきたのです。
「見るな!早く!」
夫が身体ごと引き寄せるように私の腕を取り直しました。それから先のことについては今でも記憶が曖昧です。夫に手を引かれて走り、車まで戻ったこと。彼が必死でエンジンをかけ続けてようやく発進したことまでは辛うじて覚えているのですが、再び意識がはっきりした時には夜の高速を走っていました。
あの出来事から10年経ちましたが、夫はいまだにその話題に触れたがりません。しかし私は今でも時々、あの麦わら帽子の老人と裏山にいた人々は一体、何だったのか、と思い巡らせることがあるのです。いくら考えても答えは出ませんが……。当時乗っていた車は、もう気味が悪くて乗れないということで、その後すぐに処分しました。あの日、恐怖から逃れた後、パーキングエリアで休憩したのですが、彼が車を降りて後ろに回ったとたん、いきなり呻いて後退ったんです。いつの間にかリアウインドゥのワイパーに、あの赤い百合の花が挟まっていました。さらに窓を含めた車体後部の一面は、泥まみれの手形で埋まっていたのです。